1985年8月12日 日航機123便が御巣鷹山に墜落
中学生になったばかりだった。
夏休み長野の実家へ帰省していた。
夕方近くに
「日航機が行方不明」
「長野県佐久市に墜落?」といったニュースが流れていた。
数時間後に
「御巣鷹山に墜落した模様」と判明するも
墜落かぁ・・・程度にしか、思っていなかった。
多くの人が亡くなる、命が無くなるという現実を捕えていなかった。
それから程なくして
小学3年生でクラスメートだった女の子が日航機123便に
乗っているかもしれないと連絡が回ってきた。
乗っているかもしれないと連絡が回ってきた。
夜中だったと思う。
ニュース番組のテロップで、搭乗していた人々の名前が映し出されていた
おびただしい数だった。
その中に 彼女の名前はあった。
その中に 彼女の名前はあった。
カタカナで表示されたその名前は無機質すぎて、
太陽のように明るかった彼女の名前とはとても思えなかった。
連絡があったとおり、彼女は乗っていた。
12歳。
亡くなられた520名のうちの1人。
---
何年か経ち、あの事故のことも記憶から薄れ始めていた。
妻と一緒に夏季休暇を車で長野へ帰省した日のこと
渋滞を避けるために、普段帰省時に通らない道を
訳も分からずに走っていた。
気がつけば山を越える為の一本道となっていた。
どんどん山道を登っていくと、黒い服を着た人々が道の脇を歩いて登っていく。
その道の先には、大きな慰霊塔が立っていた。
沢山のろうそくが灯り、多くの人々が集まっていた。
御巣鷹山の事故現場だった。
そして8月12日だった。
亡くなった彼女に導かれてここに来たのだと思い
車を降りて慰霊塔へ。
亡くなられた方々の名前が記載された灯ろうがあり
そこに彼女の名前が確かに刻まれていた。
「私の事、わすれないでね。」
ということだったのか。
「私の分まで一生懸命生きてね」
ということだったのか。
あの日の不思議な体験とともに、彼女の事を忘れる事はないだろう。
12歳。
亡くなられた520名のうちの1人。
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何年か経ち、あの事故のことも記憶から薄れ始めていた。
妻と一緒に夏季休暇を車で長野へ帰省した日のこと
渋滞を避けるために、普段帰省時に通らない道を
訳も分からずに走っていた。
気がつけば山を越える為の一本道となっていた。
どんどん山道を登っていくと、黒い服を着た人々が道の脇を歩いて登っていく。
その道の先には、大きな慰霊塔が立っていた。
沢山のろうそくが灯り、多くの人々が集まっていた。
御巣鷹山の事故現場だった。
そして8月12日だった。
亡くなった彼女に導かれてここに来たのだと思い
車を降りて慰霊塔へ。
亡くなられた方々の名前が記載された灯ろうがあり
そこに彼女の名前が確かに刻まれていた。
「私の事、わすれないでね。」
ということだったのか。
「私の分まで一生懸命生きてね」
ということだったのか。
あの日の不思議な体験とともに、彼女の事を忘れる事はないだろう。